【前編】生い立ち

いじめ

嫌な思い出なので、友達にすらこの話をしたことはほとんどない。

小学6年生の頃、いじめにあった。

それまで頻繁に遊んでいた友達2人が、突然昼休みのサッカーに誘ってくれなくなった。

すぐに異変に気づいたけど、自分がハブかれているということを認めたくなくて、誘われなくてもなんとかついて行った。

いつもの校庭で「僕もサッカーいれて」と言ったが、みんな僕を完全に無視して輪を作り、チーム分けが始まった。

主要の2人が僕をハブいているので、みんなも逆らえないようだった。

「やばい泣く」と思い、すぐ教室に戻った。

1番仲良くしていた2人だった。うちにもしょっちゅう遊びに来ていた。

それ以降、学校に行くのが怖くなった。

ハブかれる数週間前のこと。

僕は住所でいうと、A中学へ進学することになっていた。

しかしその友達2人が隣のB中学に行くと聞き、自分も「B中学校への越境入学届け」を出してしまっていた。

その手続きは、僕のお母さんが、その2人のお母さんと一緒に車で区役所に行き、やってくれた。

色々と都合が悪すぎる。なんでこんなタイミングで。

その2人はどこにいても主要メンバーになるタイプなので、このままだと中学でも確実にイジメられる。

わざわざ中学校を変更したいと言ったのはこの僕だ。

「なんで変えたいって言っちゃったんだろう」

僕が中学を変える決心をした理由であるその2人が、突然僕を無視するのだ。

多分明確な理由はなく、なんとなく僕が鼻についたのだと思う。

今思えば、仲が良かった、というかはクラスを引っ張るその2人と一緒にいれたことが嬉しいだけだったのかもしれない。僕の家はいつでもオープンで、ゲームがあって、お菓子もたくさん出てくるので、2人にとっても都合が良かったのだと思う。

その後も無視は続いた。

ある日の朝、学校に行けなくなった。涙が止まらなくなってしまった。

お母さんはとても心配し、どうしたのと聞いてきた。

「今、友達に無視されていて、学校に行くのが怖い。」

お母さんは悲しそうだった。

実は同じ時期、僕の姉も中学校でイジメられていた。机にツバを吐かれたりしていたらしい。僕よりハードだ。

家族への負担をさらに増やしてしまった。申し訳なくなった。

しかし母は強い。

「じゃあもう、今日は学校行かなくていいよ。あとB中学行くのやめよ、やっぱりA中学に戻そう!」

すぐに母は1人で区役所に行き、越境入学の手続きを取り下げてきてくれた。

すごく頼もしかった。子どもを守るときの母は無敵だ。

結局卒業までその2人と話すことはほぼなかった。卒業式ではケロっと話しかけられたような気もするけど、それがまた嫌だった。

こんな後味で終わってしまったので、正直小学生の頃の知り合いとは今でも会いたくない。

先日あった同窓会も、タイムカプセル掘りも、誘われたが全て無視してしまった。

僕が10歳下の弟に対して特に思い入れが強いのは、こういった経験があるから。

お兄ちゃんもお姉ちゃんもイジメられて辛い思いをしたので、せめて弟だけにはこんな経験をして欲しくない。

 

中学

いじめられてから完全に自分に自信がなくなった。

中学校では「絶対に人に嫌われないように生きよう」と思った。

あまり目につく行動はしないよう心がけた。

ひょんなことから嫌われる可能性もあるので、なるべく自分が下にまわってとにかく気をつかった。

常に優しい人間でいようと思った。

人の悪口は言わなかった。

なるべく明るくいようと思った。

そんなスタンスだったので、イジられ役がまわってきた。

なぜかハゲキャラになった。

それでも居場所ができた気がして嬉しかった。

喜んでハゲを引き受けた。

その甲斐もあり、友達がたくさんできた。

中3の担任の卒業メッセージでは、「学年一友達の多い新井くん。友達にどんなことを言われても怒らずに受け止め笑っている姿をみて、その理由がわかりました。」と書かれた。

今でも中学の友達は好きだが、”嫌われないために生きていたときにできた友人”と改めて会いたいとは、正直思えなくなってしまった。

卒業後も集まりには誘われたけど、あまりに行かないのでもう誘われることもなくなった。

頑張って、時には無理してみんなと仲良くできるように振る舞ったけど、ここだと思える居場所を作ることはできなかった。

 

高校

高校に入学した。

有賀に出会った。

出会った瞬間やばいやつだと思った。

前髪に白髪が混じっていて、ワックスで髪が少し立っている。ニコちゃんマークのTシャツをよく着ている割に、テンションが常に一定で表情が変わらない。

とにかく何か変だった。

有賀はダントツでギターがうまかった。小5からやっているらしい。

僕は高校に入ったら1番かっこいいメンバーと1番かっこいいバンドを組んでやる、と思っていた。

有賀とバンドを組みたいと思ったが、彼も僕もギターボーカル志望だった。

バンドにギターボーカルは1人で十分だ。

有賀は入学してすぐにメンバーを見つけ、高1の夏休みにはオリジナル曲を披露していた。

1人だけダントツにギターが上手いので、部員みんなが彼を注目していた。

僕はコピバンを何個かやったが続かず、“オリジナルバンドを組む”という夢は叶う気配もなかった。

「出遅れたなあ」と思った。

まあ、これまで人生において、何かで1番になったことはない。

いつもなにかうまくいかないのが自分の人生だ。

高1の終わり頃、父親が経営する会社が倒産し家計が最悪な状態になった。

両親の喧嘩も多く、父親はアルコール中毒になった。

ドラマみたいだか本当の話で、毎日家に帰ると台所に缶ビールをもった父親が死んだように倒れこみ寝ている。

僕はお酒を飲まないことを決めた。大人になった今でも一滴も飲まない。

とりあえず全てがうまくいっていなかったので、この頃の僕はすごくネガティブだった。

それまで大好きだったサッカーを辞め、夢だった軽音部に入ったのに、バンドすら組めていない。もうすぐ一年が終わる。

もう何しているんだろうと思った。

 

このままじゃだめかもしれない

「このままじゃだめかもしれない」と思った。

このまま目の前の環境を受け入れて悲観しているだけでは、何も変わらないのではないか、と思った。

そういえば、人生においてなにかを死ぬ気で頑張ったことあったっけな。

小5の頃、サッカークラブで副キャプテンに選ばれた時、期待に応えようとめちゃくちゃ頑張った。ただ、小6になって僕をハブいたあの2人も同じサッカークラブだった。

あれ以来僕は自分に自信がなくなっていたので、最後に頑張ったのは小5かもしれない。

高校生活は毎日なんとなく楽しいけど、本当の意味で満たされることはなかった。人生がこのまま終わるのが嫌だった。

よし。僕は小学5年生以来の「頑張る」をしようと決心した。

「バンドが組めないなら、まずはソロ活動をしよう」と思った。

必死だ。ソロなんて本来やりたいことでは全くない。しかし、いつかのバンド活動のためには、今できることを全力でするしかない。

将来バンドを組んだらやろうと思って作っていた曲を、ドラムもベースもなしで練習した。休みの日は1日8時間くらいギターを弾いた。

高1の終わり頃、初めてライブハウスに出た。夢にまで見たライブハウスでのライブ。

一つ、思い描いていたのと違うのは、”1人での出演”だということ。

こんなはずじゃなかったんだけどな。ごめんよ中学の頃の俺。

まだバンドすら組めていないけど、なんとか頑張ってみる。

 

出会い

僕の通うA高校の近くに、中高生向けの巨大児童館があった。3つの音楽スタジオ、ライブホールまでついてるいかした児童館だった。毎週のように通った。

児童館にはすぐ隣のB高校の生徒もたくさん来ていたので、関わる機会があった。

高2の初め、その児童館でB高校の生徒たちがライブをするというので観に行った。

そこで、すごいものを見てしまった。

恥ずかしげもなく、9mm Parabellum Bulletをシャウト混じりに歌う、ガタイのいい金髪のギターボーカルがいた。

僕は自意識過剰なので、シャウトができない。人前で叫ぶことは不可能だと今も思っている。

しかし金髪の彼は、正直決して歌が上手いわけではないのに、

“生涯で人の目など気にしたことがない”というようなシャウトを披露した。

そして演奏が終わると、次はマキシマムザホルモンのドラムとしてその金髪が再び登場した。

何が起こっているのだろうか?

しかも今回はめちゃくちゃ上手い。この人は本当はドラマーだったのか。

意味がわからないが、やばい人だと思った。

とにかく刺激が強いその人に、僕は惹かれてしまった。

彼の名前は古屋という。

ライブ後、すぐに話しかけた。

「僕、今1人で活動していてメンバーを探しているんだよね!」

反応は薄かったと思う。僕は諦めず、その後も児童館で彼を見つけては話しかけ、自分の曲を簡単に録音したCDを渡した。

数週間後。

彼は僕の曲を気に入ってくれたようだった。

「俺、ドラム叩くよ~」

バンドを一緒にやる、というよりも、僕の曲のバンドバージョンを手伝ってくれる、程度のスタンスだったと思う。

それでも僕はめちゃくちゃ喜んだ。ついに自分の曲がバンドでできる!

あとはベースを探さなければ…と思っていたら、

「俺の幼馴染でベースがいるから連れてくるよ」と、原を連れて来た。

僕と原との出会いはあっけなかった。

有賀や古屋のような衝撃はなく、あまり鮮明には覚えていない。

気付いたらいた感じだ。まさに今の僕と原のような関係だ。

僕は優しい空気のような原が大好きだ。

 

PENs+結成

高2の夏、バンド名が決まらず、僕の使っていた筆箱に書いてあった「PENs+」という文字をそのまま採用し、PENs+(ペンズ)を結成した。

さっそく出会いの場である児童館でライブをし、評判も良かった。

当時、10代バンドの憧れの舞台といえば満場一致で「閃光ライオット」だった。

Sony Musicと東京FMの番組School of Lockにより運営されるこのフェスは、10代の音楽好きから熱烈な支持を得ていた。

毎年1万組以上の応募の中から、出演できるのは10組ほど。

凄まじい競争率だった。

初ライブ後、僕は古屋と原にこんなメールを送った。

「今日はありがとう!めちゃくちゃ楽しかった。僕、閃光ライオットに出るのが夢なんだけど、この3人ならなんかいける気がするんだよね!来年応募してみたいな。」

返信はこうだった。

原「僕はどれくらい協力できるかわからないな、正直、あまり自信はないかもしれない。。」

古屋「(`・ω・´)」

俺が頑張ろう、と思った。

 

閃光ライオット

高3になり、閃光ライオットに応募した。

直感だが、なぜかいける気がしていた。

なぜなら、僕は小5でサッカーチームの副キャプテンをやったとき以来の「頑張る」をしていた。

こんなにギターを練習している人はまわりにいないと思っていたし、

こんなに強い想いでバンドをやっている同世代はいないと思っていた。

一次審査、二次審査に受かった。

三次審査は、名古屋会場で実際にお客さんの前でライブをすることになった。

高3の夏、受験勉強が一番忙しい時だ。

模試の英語偏差値38を記録してしまったにも関わらず、実力に全く見合っていない立教大学を第1志望にしていた僕は、新幹線で単語帳をやりながら名古屋へ向かった。

ライブは”まあまあ”だった。弦も切れたし、特別良くはなかったと思う。

でも、「この前までバンドを組むことさえできなかった僕だけど、死ぬ気で頑張ってなんとかここまでたどり着いた」と、MCでそれだけはしっかり伝えた。

PENs+は最終審査に受かり、1万組中の9組に選ばれた。

音楽的な良さよりも、”心意気”を評価してもらえたのだと、今は思う。

僕たちは日比谷野外音楽堂で3000人以上の前で演奏をした。

司会は能年玲奈さんだった。

演奏中のことはあまり覚えていない。

前日の夜中から会場に並んで最前列を確保し、感動ポイントなどない最初のギターフレーズが鳴った瞬間に泣き出した有賀の顔しか覚えていない。

 

閃光ライオット

 

 




【後編】生い立ち

 

 

 

 

 

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コメント

  1. はなほ より:

    SOLのセカオワLOCKS!の時間に初めてPENs+を聞いて、大好きになりました。当時中学2年生で、親に反対されたため、テレビで閃光ライオットのファイナルをみました。録画して何度もペンズをみました。そんな閃光までのお話を知れて、とても嬉しいです。新井さんはギターをかっこよく弾けるし、勉強もできて、わたしの憧れです。後編も楽しみにしています。

  2. はなほ より:

    いつもブログをたのしくよんでいます。SOLのセカオワLOCKS!の時間に初めてPENs+を聞いて、大好きになりました。当時中学2年生で、親に反対されたため、テレビで閃光ライオットのファイナルをみました。録画して何度もペンズをみました。そんな閃光までのお話を知れて、とても嬉しいです。新井さんはギターをかっこよく弾けるし、勉強もできて、わたしの憧れです。後編も楽しみにしています。

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